加賀藩の文化を紐解く6つのポイント

[四]幕府との確執、加賀藩の生き残り戦略

芳春院自筆消息(前田土佐守家資料館所蔵)
娘の千世宛。関ヶ原に参戦しなかった利政の処遇を案じ、家康の政治を鋭く批判している

 加賀藩は二度、存亡の危機に立たされています。
 一度目は利家死去後、徳川家康が天下取りに動いた慶長4年(1599)です。関ヶ原の戦いは上杉征伐が発端で勃発しますが、家康はその前に利長謀反の讒言(ざんげん)をきっかけに加賀征伐を企てました。重臣・横山長知(ながちか)が弁明し、芳春院(ほうしゅんいん)(まつ、利家正室)が人質として江戸に下ることで和睦しました。
 二度目は幕藩体制も安定してきた寛永8年(1631)です。大火により焼失した金沢城を無断で修築したこと、船舶の購入や大坂の陣で武功があった者に再度論功行賞を行ったことを理由に、謀反の嫌疑をかけられました。利常、光高(みつたか)が江戸へ行くも将軍家光に会えず、重臣・横山康玄(やすはる)が弁明しやっとのことで事なきを得ました。

慶長の危機

慶長3年(1598) 8月 豊臣秀吉死去
慶長4年(1599) 1月 利家、秀頼の傅役として大坂城に移る
2月 石田三成、利家とともに徳川家康の専横を糾弾(家康詰問事件)、和解[※]
閏3月 利家死去
8月 利長帰国
9月 利長への讒言あり、家康は加賀征伐を企てる
11月 利長、横山長知を遣わし家康に弁明
この年、金沢に内惣構堀を掘る
慶長5年(1600) 3月 徳川家と和睦。利常、珠姫と婚約
6月 芳春院、人質として江戸へ赴く
8月 利長、東軍として出陣。浅井畷の戦い(北陸の関ヶ原)
9月 関ヶ原の戦い
10月 利長、加越能3カ国120万石を領有

寛永の危機

寛永8年(1631) 4月 大火で金沢城焼失
11月 前田家、幕府に謀反の嫌疑をかけられる。
利常、光高が出府するも家光に目通りできず、 横山康玄の弁明で事なきを得る
寛永9年(1632) 12月 大姫(水戸光圀の姉、家光養女)、光高に嫁ぐ

[※]利家vs家康 決死の神経戦

 秀吉死後、専横なふるまいを強めた家康を止めるべく、利家は家康を詰問する。家康は表向き非を認め和解したが、秀吉が遺した秀頼補弼(ひでよりほひつ)の遺言に忠実に応えるべく、利家は病を押して家康に詰め寄った。
 伏見の家康邸で面談する際、利家は「家康われらを斬らぬは百に一、斬るは必定」「事あらばこの刀を以って一太刀斬るべき」と刺し違えの覚悟を漏らしたという。その後、病気見舞いの名目で家康が利家邸を訪れる際には、家康の謀殺を企てた。布団の下に抜き身の刀を忍ばせ、利長に「心得ておるな」と迫ったという。
 事の真相は明らかではないが、最後まで秀吉の遺言を守ろうとした利家の律儀さと決死の覚悟を物語るエピソードである。